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藩の危機を救った恩田木工の人材マネジメントとは?~「悪役人」が「忠実な部下」に変貌!~

コラム
 いわゆる「元禄バブル」がはじけた18世紀半ばの日本。幕府の金融政策失敗の影響は諸藩にまでおよび、信州の小藩・松代藩も藩始まって以来の財政危機に陥りました。さらに台風や大洪水などの天災、足軽のストライキや農民たちの一揆まで発生して、藩はまさに絶体絶命。ここで家老に命ぜられ、改革に乗り出したのが恩田木工(もく)(1717年~1762年)でした。彼の生存中は改革の明確な成果は見られなかったにも関わらず、後世まで彼の業績が語り継がれる理由はいったい何でしょうか?
■「決して虚言は申さず」~まずは自分がやってみせる
 家老になった木工はまず家族・親族に義絶を申し入れました。理由は着任にあたって以下の二点を自ら誓ったからでした。
 ①「決して虚言を申さず」→決して嘘をつかない。
 ②「飯と汁よりほかは香の物とても食さず」→贅沢をせず自ら節約に励む。

 しかし自分がいくら頑張っても、家族や親族が嘘をついたり、不誠実な行いをしたりしては自分への信頼も失墜する。それに自分の質素な生活を家族にまで強いるのが忍びない、というのです。家族は木工の決意の強さに改めて感じ入り「自分たちも2つの誓いを守ると約束するから、義絶しないでほしい」と願い出たのです。家族だけではなく、この話を伝え聞いた藩内の人々は大いに木工に共感、彼への信頼も確固たるものになりました。木工は上意下達で改革を進めるのではなく、まずは自身らを戒め、自ら足元を固めた上で、本格的な改革に着手したのです。

■「人というものはよき人が使えばよくなるものでございます」~部下を信じる
 木工が実践した改革は主に年貢の納め方に関わるものです。それまで藩内では役人への賄賂や接待が常習化、農民たちを大いに圧迫していました。木工はただちに賄賂や接待を禁止。さらに農民たちに未納の年貢を帳消しにすることも約束します。その代わり、本年分からは不足なく納めること、さらにこれまで年1度、現物(米)で納めていた年貢を、月1度、現金で納めることを農民たちに頼んだのです。現金収入を増やし、大商人からの借金に依存した藩財政を立て直そうというわけです。農民たちが同意したのは言うまでもありません。

 約束を取り付けた木工は農民たちに礼を述べた上で「これまでの役人の所業で許しがたいものがあれば殿に申し出よ」と伝えました。農民たちは早速、悪役人たちの名を書いた上申書を提出しました。そこに書かれた所業は切腹も当然、という悪行ばかり。困ったのは当時の藩主・真田幸弘です。本来なら名の挙がった全員に切腹させるべきですが、なかなかそれは難しい。しかし農民たちの意見を無視すれば、せっかく木工が築いた農民たちとの信頼関係が崩れてしまう…。

 悩んだ幸弘が木工に相談したところ、彼の答えは実に明快でした。「悪役人たちを自分の部下にして下さい。このような悪事を働くものは、知恵者でございます。その知恵を良い方に使えば、きっと役に立ちます。人というものはよき人が使えばよくなるものでございます。悪い人が使えば悪くなるものでございます。」と言い切りました。
 木工は誠意を尽くして接すれば悪人も改心するはずだという信念と、誠意が通じない場合は自ら死んで責任をとるという覚悟を持っていたのです。悪役人たちは、本来切腹になる命を助けられ、しかも、部下に抜擢してもらったわけですから、木工への恩義と忠誠を感じないわけがありません。その後は身を粉にして働き、木工のために尽くしたと言われています。

 着任からわずか4年後、木工が志半ばで急逝してしまったため、改革の成果はなかなかあらわれず、その後も松代藩の財政は苦しい状況が続きました。しかし木工は、「人材」という遺産をのこしていました。木工の働きぶりを見て育った部下たちは、彼の死後もその遺志を引き継ぎ、改革を続けました。その甲斐あって幕末頃までには松代藩は内福で知られる藩となったのです。

 単に頭ごなしに命令するのではなく、自ら行動することで周囲の共感と信頼を得、改革を進めた木工。その生きざまをみると、彼がいかに「人の心」を動かす能力に長けていたかがよくわかります。彼の業績を伝える「日暮硯」が現代も各界のリーダーに読み継がれている理由はこのあたりにあるようです。