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「人は石垣、人は城、人は堀」~戦国最強の「武田軍団」を作った武田信玄の人材活用術とは?~

戦国最強
 戦国時代きっての名武将として、現在も人気が高い武田信玄(1521年~1573年)。
 もともと山深い甲斐の国(現在の山梨県)の一領主にすぎなかった武田家は、信玄率いる戦国最強の軍団「武田軍団」の力で一躍、天下取りの大舞台に躍り出ました。かの三方が原の戦いで織田・徳川連合軍を破るなど、抜群の戦力を誇った武田軍団の強さの秘密、それは信玄の優れた人材活用術にあると言われています。生き馬の目を抜く戦乱の時代にあって、信玄はいかにして軍団の求心力と士気を維持できたのでしょうか?
■能力主義~部下を正当に評価する
  戦国時代はまだまだ家柄が重視される時代でした。武田家は源氏の流れをくむ名家でしたが、信玄は人材登用に関して年功や出身は重視せず、実力主義を採ったことで知られています。
 例えば大河ドラマの主人公にもなった有名な山本勘助もその一人。当時、勘助はすでに兵法家として数々の戦功をたてていたものの、片脚と片目が不自由で風采もあがらなかった勘助は、他の戦国大名に正式採用されることはありませんでした。ところが信玄は勘助の容姿にとらわれず、あくまでも戦功で彼を評価。そして出身すら分からない一介の浪人者・山本勘助を破格の待遇で採用、重く用いたのです。勘助がこの恩義を生涯忘れず懸命に働き、信玄に一生をささげたことは言うまでもありません。信玄のこういった能力主義は、家臣たちに「がんばれば評価される」という希望を植え付けました。その希望こそが、家臣たちの士気を上げ、武田軍団全体の求心力を強めたのです。

■武田24将による合議制~部下ととことん話し合う

  武田軍団の強さの秘訣は、信玄個人の力というよりもブレーンの強さにあります。このブレーンは俗に「武田24将」と呼ばれ、山本勘助を始め武田軍の精鋭24人で構成されていました。例えば戦の方針を決めたり、戦略を練ったりと重要事項を決定する時には、必ずこの24人による話し合いが行われたのです。面白いのは、この24人の中に信玄自らも入っていること。信玄はブレーンを下に従えて意見を吸い上げていたのではなく、自らその議論の輪に入っていたのです。これは信玄が独断に走らず、部下の意見をよく聞いていたことを意味します。このため、武田軍には信玄の方針を不満に思う者が少なかったと言われているのです。ちなみに、この点で信玄とよく引き合いに出されるのが、信玄と天下取りを争ったあの織田信長です。信長は信玄とは違って、ブレーンなどをおかず全て独断で決定、実行するタイプで、最後にはその独裁ぶりに不満を抱いた明智光秀に討たれてしまいます(=本能寺の変)。このような事態は信玄配下の武田軍団ではまず、起こり得なかったでしょう。

■人は石垣、人は城、人は堀~部下を大切にする

  また、信玄は他の戦国大名と異なり、居城を築きませんでした。甲府市に残る信玄の住居・躑躅(つつじ)が崎(さき)の館も大名の住居としては極めて簡素なものです。あえて城を持たないという信玄の思想は、彼の軍法を記した書物「甲陽軍鑑」に次のようなフレーズで紹介されています。
「人は石垣、人は城、人は堀」
つまり、「戦いに必要なのは堅固な城ではなく、人の力である。 一人一人の兵の力を育て、彼らの才能を十分に発揮できるような軍をつくることが大事だ」と信玄は考えたのです。
 上の「人は石垣…」のフレーズは「情けは味方 仇は敵」と続きます。つまり「情け深く誠実な態度で接すれば、こちらの気持ちは相手の心に届き、相手を味方にできる。逆に相手に恨まれるようなことをすれば、結局その害は自分に帰ってきてしまう」ということ。これを文字通り実行した信玄は、家臣を重んじ厚遇することで団結を強め、城にも勝る強固な軍団を作り上げたのです。
 その後、満を持して信長と決戦すべく京に向かった信玄は病に倒れ、あえなく死去。結局武田家は滅亡し、信玄の熱望した天下統一はかないませんでした。しかし、信玄の遺した数々の言葉やエピソードは彼の死後400年以上を経た今もなお各界のリーダーたちに読み継がれ、人材活用の現場に広く生かされています。